1979年 | ● | モエレ処分場として利用開始。不燃ゴミの搬入始まる。
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ゴミの埋立てが進行していた 当時の公園用地
モエレ沼公園の現場視察をする イサム・ノグチ(右端)
イサムノグチによる ブラック・スライド・マントラの スケッチ
モエレ沼公園第一次案の模型
ゴミ埋立て地当時の航空写真
モエレ沼公園の模型を前にした イサム・ノグチ |
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1982年 | ● | ゴミ埋立て完了部分での公園基盤造成に着手。
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1988年 | 3月29日 | ● | イサム・ノグチ、初めて札幌市を訪れる。
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3月30日 | ● | イサム・ノグチ、プロジェクト参画候補地を視察。 札幌芸術の森、札幌市立高等専門学校予定地を回ったあと、モエレ沼公園の造成現場を視察し、当地への興味と公園設計への強い情熱を示す。このときノグチより、大通公園へのブラック・スライド・マントラの設置の提案がなされる。 「約100haのこの土地は、ゴミの埋立て地であり、当時はまだ盛んにトラックが出入りし、強風にビニールゴミが舞っていた。現地に着き、長靴に履き替えると、イサム・ノグチは喜々として残雪の中に歩き出した。同行した札幌市の方々や私たちは、ただ後を追いかけていた有様だった」(アーキテクトファイブ 川村純一氏)
「正直な話、僕も最初連れて行くときゴミ捨て場に連れて行くのかぁ、という思いはあったんですね。こんなところに連れていっても大丈夫なのだろうか、と思ったんだけども、それは逆でゴミ捨て場だからよかったんだと、あとで強く思いました」(BUG 服部裕之氏)
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4月4日 | ● | 現地視察のあと、ノグチより具体的な提案がなされ、市はそれを受けて助役会議を開く。イサム・ノグチに公園設計の見直しを依頼。大通公園の彫刻設置場所についても話し合う。
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5月20日 | ● | イサム・ノグチ、2度目の来札。 現地視察後、同氏持参のモエレ沼公園の模型(1/3000)によって第一次案の説明を行う。
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5月21日 | ● | イサム・ノグチ、大通公園を散策。ブラック・スライド・マントラの設置場所について、公園を連続化する案に落ち着く。
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6月4日 | ● | アーキテクトファイブにて、次回ノグチ来札に向けての打ち合わせ。その際ノグチより送電線ルートの変更を要求される。
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6月19日 | ● | イサム・ノグチ、3度目の来札。 模型・写真等によって第二次案の構想を説明。桂助役より正式に依頼する。
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6月20日 | ● | 札幌市役所にて、モエレ沼公園とブラック・スライド・マントラの記者発表を行う。1/2000模型を提示。
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7月1日 | ● | 北海道電力、北海道開発局、小鍛冶組3者の協力が得られ、送電線ルートの一部変更が可能になる。 「その結果を先生に報告しました。すると先生はこうおっしゃったんです。『私のためではないでしょう。あなた方札幌のためでしょう』と。送電線ルートの変更は、自分の作品ためではなく、ずっとここに住んで遊びにくる人のためだ、という先生の気持ちがよくつたわってきました」(札幌市職員 故・山本仁氏)
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7月6日 |
● | ノグチとモエレ沼公園基本設計業務委託契約を行う。
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9月23日 | ● | モエレ沼公園の基本構想がほぼ完成する。
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10月28日 | ● | イサム・ノグチ、4度目の来札。 現地指導・調査、植栽に関する打ち合わせを行う。
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11月16日 | ● | 香川県牟礼町のアトリエにて、1/2000模型を最終調整。
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11月17日 | ● | 同アトリエにて、ノグチ84歳の誕生会を開催。その席で、モエレ沼公園のマスタープランとブラック・スライド・マントラの模型が披露される。 「先生は出来上がったモエレの模型とマントラの模型を前に、これで私がいなくなってもあなたがたでできます、というんです。…このときの言葉が我々には遺言のように耳に残っています」(札幌市職員 故・山本仁氏)
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12月30日 | ● | イサム・ノグチ、ニューヨーク市立大学病院にて死去。 |