1904年 0歳 11月7日、詩人の野口米次郎を父に、教師のレオニー・ギルモアを母として、アメリカ・ロサンゼルスに生まれる。
1907年 2歳 母とともに来日し、東京に住む。
1917年 12歳 単身アメリカへ渡る。
1922年 17歳 高校を卒業し、夏の間、彫刻家ボーグラムのもとに弟子入り。
1923年 18歳 アーティスト志望を一時断念し、コロンビア大学医学部課程入学。
1924年 19歳 レオナルド・ダ・ヴィンチ美術学校の彫刻クラスに通学。校長オノレオ・ルオトロに天分を認められる。

1927年

22歳 グッゲンハイム奨学金を得て、パリに留学。6カ月間、ブランクーシの助手をつとめる。
1929年 24歳 ニューヨークに戻り、生活のため、肖像彫刻を手がける。
1930年 25歳 「東洋への巡礼」に旅立つ。北京で6カ月間水墨画を学ぶ。
1931年 26歳 京都に4カ月滞在し、陶芸家宇野仁松のもとで、テラコッタ作品や壺を制作。
1933年 28歳 「プレイマウンテン」「鍬のモニュメント」を設計。
母レオニー死去。
1935年 30歳 マーサ・グラハム「フロンティア」のために最初の舞台装置を制作。
メキシコシティーで壁画レリーフ「メキシコの歴史」を制作(-36年)。
1942年 37歳 「日系二世作家及び美術家民主主義動員同盟」を結成。
アリゾナ州ポストン強制収容所に志願して入所。
1947々 42歳 父米次郎死去。
1949年 44歳 ボーリンゲン財団助成金でヨーロッパ、エジプト、アジアを旅行。
1950年 45歳 19年ぶりに来日。慶應義塾大学の「新萬来舎」を建築家・谷口吉郎とともに設計。庭園と野口ルームを担当。
1951年 46歳 広島平和記念公園の2つの橋の欄干「つくる」「ゆく」を制作。
1952年 47歳 広島の原爆慰霊碑をデザインするが実現せず。
北鎌倉の北大路魯山人のもとに新居とアトリエを構える。
1956年 51歳 パリ・ユネスコ本部の庭園の設計依頼(-58年)。
1961年 55歳 エール大学バイネッケ稀覯本図書館の沈床園(-64年)に着手。
エルサレム「ビリー・ローズ彫刻庭園(-65年)」に着手。
1967年 62歳 香川県牟礼において、和泉正敏氏を協力者に「黒い太陽」の制作を始める。
1968年 63歳 自伝「或る彫刻家の世界」を刊行。
「赤い立方体」(ニューヨーク)を制作。
1969年 64歳 牟礼町にアトリエを設ける。
シアトル美術館に「黒い太陽」を設置。
1970年 65歳 大阪万博のために9つの噴水をデザイン・設置。
牟礼町に「イサム家」完成。
1980年 75歳 ショージ・サダオとマイアミ「ベイ・フロント・パーク」(-93年)、「カリフォルニア・シナリオ」(-82年)に着手。
1986年 81歳 第42回ヴェネチア・ビエンナーレにアメリカ代表として「スライド・マントラ」を出品。
第2回京都賞受賞。
1988年 83歳 モエレ沼公園のマスタープランを作成。
12月30日、ニューヨークにて逝去(享年84歳)。